遊山箱 〜YUSANBAKO〜

Global Communication 2026年2月6日

田の神迎えの遊山箱

石畳で整備された川沿いの歩道を右に折れると、正面に小高い山が見えた。昔からここで暮らす人びとに格別愛されてきた「眉山」である。万葉集にも詠われたこの山は、稜線が眉の形に見えたことからその名がついたといわれている。

吉野川の河口に形成された砂州地帯につくられた城下町徳島市は、江戸時代には阿波国と淡路国の両国を領有した25万石の大藩の藩都だった。藩主は天下人豊臣秀吉との縁の深い蜂須賀家で、徳川家康ともうまく渡り合って乱世をくぐり抜け、江戸時代を生きた。この地はもともと海運の盛んな地で、徳島藩は藍や塩、農作物、それから木材、木材加工品などを水軍を使って藩の経済を潤していた。特に城下の安宅という地に水軍基地を設け、多くの船頭・水主、船大工を住まわせていた。明治時代になって藩がなくなると船大工たちは禄を失ったが、船大工の技術を活かして日常雑貨から建具などの木工品をつくるようになり、「鏡台」の一大産地までになった。その伝統の手先の器用さが、小さな弁当箱をつくったのかもしれない。

徳島に「遊山箱(ゆさんばこ)」という弁当箱がある。

子ども用の小さなもので、持ち手のついた外箱のなかに三段の内重が納まっている。この遊山箱は春のひな祭りの旧暦3月3日だけに使われる特別な弁当箱である。一般的に遊山といえば野山に遊ぶ行楽のことをいうが、徳島ではこの節句の日に子どもたちが遊山箱をさげて特別な場所へ行って遊ぶことをいう。このことは江戸時代から続いていて、江戸後期の文化年間の『阿波国風俗問状答』のなかにある「三日ひなまつりの事」の条に次のように記されている。

此の日、男女の子供、べん當を持たせ、

船にて、汐干にあそび、

山にもたはむれ申候。

江戸のころより連綿と続いてきた徳島独特の遊山箱だが、昭和30年代をピークに、節句に遊山という風習も徐々に見られなくなり、昭和40年代の終わりごろには消えかかっていた。そのような状況にあって、子どものころに遊山箱で遊んだ経験があり、遊山箱復活に力を注いできた人いた。徳島市の中心街の籠屋町商店街に店を構える「漆器蔵いちかわ」の代表、市川貴子氏もその一人だ。

眉山を正面に見ながら商店街になっているアーケードに入り、左へゆくと二筋に分かれる角に店はあった。市川氏は徳島市内から園瀬川をさかのぼった山間部の佐那河内村の出身で、子どものころの遊山の楽しい体験は今も鮮明に覚えているという。

「私が子どもの時分は、私を含めて戦後のベビーブームの子どもたちがたくさんいました。ですから私と同じように遊山箱を持って遊山に出かける子も多かったんです。私が育ったのは園瀬川の上流域にある山村でしたから、自然がいっぱいありました。3月3日の節句には、近くの遊山山とよばれる特別な場所へ子どもたちだけで遊山に出かけるんです。遊山山というのがあるんですね。遊山山はどの集落にもそれぞれあったらしく、昔から遊山するのは山の頂上ではなく中腹で、あのあたりが遊山の場所だよということを、親などから教えてもらうんです。子どもたちは遊山箱をさげて、そこに向かって山を登ります。子どもたちですから、それはワクワクするような冒険でした」

市川氏から見せていただいているさまざまな遊山箱は、どれも三段重ねだった。お弁当のごちそうはだいたい決まっていて、それぞれの重箱に入っていたという。

「三段重ねの遊山箱には、どのお重に何を入れるという決まりはなかったと思いますが、たいていは下段の深いお重に巻きずし、中段のお重には煮しめやゆで卵、上の段には寒天やういろうが詰めてありました」

「当日の朝は台所が華やいでいました。すし飯の匂いがしてきます。巻きずしを母がつくっているんですね。もうあんなに嬉しいことはなかった。母のそばに行って、背伸びをして、切り分けるのを覗くんです。すると巻きずしの端っこを、ほら、といってくれるんです。それが本当においしかったのを覚えています」

子どもたちだけで遊山するという徳島独特の節句の過ごし方は、どういう意味を持っているのだろう。市川氏によれば、この風習はおもに米作地帯のもので、そばをつくっている吉野川上流域ではやっていないそうで、海岸沿いの地域では「浜節句」といって、意味合いがちょっと違うらしい。

「食いしん坊は、お腹が空いたら家に走り帰って、遊山箱にごちそうを詰め直してもらって、遊山山に戻ってくるんです。何度も何度も山と里を行ったり来たりするんですね。遊山山には田の神様がいて、その田の神様が子どもについて里に下りてくるんです。つまり、一年の米づくりの始まりがひな祭りという節句の日だったそうです。徳島ではひな祭りは女の子だけでなく男の子も祝う節句なんです。男の子も遊山箱を持って一緒に遊山しました。5月5日の節句には遊山しませんから、ひな祭りの遊山は『田の神迎え』という意味合いがとても強いのだと思います。それと、遊山箱を持って何度も山と里を往き来するのは田の神迎えだけでなく、親にとって子どもたちが神隠しに遭わないように確認する意味もあったともいわれます。子どもたちで山へ入るわけですから、何度も家へ戻ってくるように遊山箱はわざと小さな弁当箱だったということを、私もおとなになってから知りました」

ほかにも徳島のひな祭りには特徴があるんです、と市川氏はいう。

「徳島市では3月3日のひな祭りの翌日は『シカノアクニチ』と呼ばれます。古くから一年の主要な節句の日は仕事を休んで身を慎む日とされてきたようです。3日に出たごちそうを、翌日の4日にも食べるんです。二日も飽きるほどごちそうを食べるので、4日のことを『四日の飽日』というようになったと伝わっているところもありますし、徳島市内では大滝山で遊山する人が多く、そこにいる鹿たちにとって迷惑なので『鹿の悪日』になったという説もあります」

江戸時代から続いてきた徳島の遊山の風習が戦後の初めのころをピークに途絶えると、遊山箱も同時に消えていった。近年、市川さんたちの努力でまた遊山箱は復活しつつあるが、遊山そのものの風習は依然途絶えたままであり、ますます少子化の時代が待っている。それを十分理解した上で市川氏はいう。

「最近、遊山箱はお菓子の器や純粋にお弁当箱として復活しつつあります。今は遊山というひな祭りの風習はなくなりましたが、お菓子にせよ別のものでも、好きなものを詰めると良いと思います。それは時代時代で変わっても良いと思いますね。ただ、皆さんに憶えていてほしいのは、遊山箱は米作の農業信仰から生まれ、この徳島が発祥だということです。徳島には昔から遊山箱というお弁当箱があって、それをさげて野山を駆けめぐっていた子どもたちがいたことを、ずっと憶えていていただけたらと嬉しいです」

こころの温もり

徳島城址のある公園から車で鳴門へと北上している。吉野川、今切川を渡って鳴門線を越えて左折し、撫養街道に入った。この街道は鳴門市撫養町岡崎から吉野川の北岸を西に走る63キロメートルほどの街道である。起点となる岡崎は、江戸時代に阪神方面から淡路島を経由して阿波に入る玄関口として栄えた。江戸時代中期以降、八十八ヶ所を巡礼するお遍路さんたちの多くはここ岡崎に上陸して、撫養街道を一番札所へと歩いていった。車もその一番札所霊山寺に向かっていた。

霊山寺は天平年間に聖武天皇の勅願により行基の開いた寺といわれる。のちに空海が寺観から天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)にて釈迦が説法している光景に似ていると感じ、天竺の霊山を和国(日本)に移すという意味で「竺和山・霊山寺」と名づけた。山門をくぐると、寺内は地形を活かした建造物の配置が美しく、しかも厳かな雰囲気を漂わせている。かつては阿波三大坊の一つとして荘厳な伽藍を誇っていたが、二度ほどの大火でそのほとんどを焼失してしまったそうで、五智如来像が祀られている多宝塔だけが往時を偲ばせている。寺内にある売店には遍路を始める発願の寺らしく、お遍路に必要な装束・道具類が揃えられていた。本堂でお祈りをしていたお遍路さんを遠目で眺めても思ったが、ここにある白装束や杖を見るだけで、八十八ヶ所をめぐる遍路の苛酷さを感じてしまう。

お遍路という「行」について思うとき、温かみを感じるのは「お接待」という風習である。お接待とは、食べ物や宿泊を無料で提供するボランティアのことだが、その行為によって自分にも功徳がもたらされる、あるいは代参してもらうという意味合いもある。だがやはり、苛酷な行を続けるお遍路さんへの励まし・手助けという気持ちが強いだろう。これはお遍路に限らず伊勢詣りなどでも行われてきた。特に伊勢詣りでは「抜け詣り」といって、正式な手形を持たない潜りの者でも、柄杓一本持っていれば沿道の人たちからさまざまなものをいただいて神宮へ行くことができた。お接待という行為は日本人の根源的な優しさの発露なのかもしれない。空になった遊山箱にごちそうを詰めに山と里を何度も往復するときも、自分の家でなく友だちの家に行っても詰めてくれるという遊山の風習も、お接待という風習が伝わる徳島だからともいえるのかもしれない。

霊山寺を出て鳴門の渦潮を見に行くことにした。うまく時間さえ合えば大潮の時間で渦潮が見られるかも知れないと思ったからだ。ただ、途中鳴門市内で食べたいものがあった。

「鳴るちゅるうどん」という楽しい名前のうどんだった。

右から「名代手打ち」「大井」「うどん」と紺地に白抜き文字ののれんをくぐると、懐かしい昭和の雰囲気のある食堂だった。ここは江戸時代から続く老舗うどん屋で、昔から麵は手打ちだそうな。大量生産ができないから麵がなくなれば仕舞いで、お昼過ぎでのれんは降ろされるという。メニューはうどんのみで、玉子入り、竹輪入りがある。しかしながら、どこにも「鳴るちゅる」という文字はない。出てきたうどんは玉子と竹輪の両方のせで、きざみの油揚げが浮かんでいる。どんぶりを両手で持ってつゆをすすると、優しいがしっかりした出汁はかつおが効いていた。竹輪もいい、玉子もおぼろ月夜のようだ。ただ、麵がどれも短くてたぐれない。麵というより細いだんごに近く、ちゅるちゅるはできなかった。

果たして渦潮を見に行くと、タイミングが合わなかった。橋のあたりに豪快に渦巻く潮は影も形もない。のんびりと船が橋の下に浮かんでいた。エスカレータを降りて展望施設の外に出ると、お好み焼きを焼いている女性から徳島県民のソウルフードを食べてみませんか、と声をかけられた。お好み焼きがソウルフードなんですかと訊ねると、これはお好み焼きではなく「豆玉」というんです、という。甘く煮た金時豆と玉子を入れたお好み焼きだから「豆玉」だそうだ。

「ほら、真ん中に渦潮があるでしょう。食べると次は渦潮に出逢えます」

「この紅いやつですか?」

「はい。次はまちがいなく大渦潮ですよ」

豆玉の真ん中に紅いナルトがのっていて、確かに渦を巻いていた。

文・写真:北崎 二郎


漆器蔵いちかわ

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